アチェ内戦(※)の和平を仲介したアハティサーリ元フィンランド大統領が2008年のノーベル平和賞を受賞し、身の安全が保証されたと見極めたためと見られる。
GAM指導者のティロ氏(ストックホルムのアチェ亡命政府で筆者撮影)
ティロ氏は1976年、ナングロ・アチェ州の独立宣言文を起草、武装勢力GAMを率いた。80年代にはメンバーと共にリビアに渡り、軍事教練を受けた。カダフィ大佐が「打倒米国」と咆哮していた頃である。
だがGAMは、兵力、火力ともに圧倒的に勝る国軍の前に敗走を重ねた。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は、インドネシア政府に命を狙われていたGAM首脳部を、スウェーデンに亡命させた。
首都ストックホルム郊外にある「アチェ亡命政府」を筆者は2005年7月、訪ねた。中央政府とGAMとの和平交渉は大詰めを迎えていた。
ティロ氏に30年間の闘いを聞くのがインタビューのねらいだった。だがティロ氏は2000年に脳梗塞を患ったこともあり、こちらの言葉に対する反応は鈍く、時折舌がもつれる。耳は遠くなっていた。インタビュー中、いびきをかいて眠りに陥ったりもした。
80年代にはリビアで軍事教練も。中央がティロ氏(亡命政府提供)
アチェで撮影してきた写真のプリント20枚ほどを差し出した。1枚、1枚を懐かしそうに見つめていたティロ氏の眼光がいきなり鋭くなった。ユドヨノ大統領の顔がプリントされたTシャツを着たアチェ男性の写真を手にした時だ。「インドネシア・ガバメント、ノー!」と言い、写真をテーブルに叩きつけたのだ。老いたりとはいえ、地元ではカリスマである武装勢力リーダーの迫力を感じさせた。
健康不安のあるティロ氏に代わり、亡命政府を仕切ってきたのがマリク・マフムド議長だ(69)だ。ヘルシンキでの和平協議、EUへの支援依頼など一切の交渉事を手がける。
マリク議長は2年に1度アチェに帰り、ゲリラ戦を続ける同志に細かい指示を与えてきたという。筆者は驚きかつ心配した。「国軍に見つかると拷問に遭いますよ」と聞くと、議長は「十分に心得ている。それでも帰る」と笑って答えるのだった。
大詰めの和平交渉にあたる議長の心境は穏やかではなかった。交渉を妥結させるためには「独立の旗」を降ろさねばならない。多くの同志が独立を目指し、命を失った。犠牲となった同志のためにも簡単に旗は降ろせない。
ところがインドネシアは前年(2004年)末、大津波に襲われ16万人もの死者・行方不明者を出した。大半はアチェの住民だった。アチェの人々の生活を守ることの方が独立よりも優先する事態となったのだ。皮肉な見方をすれば、津波は彼らが振り上げた拳を降ろす格好の機会となったのである。
ハッサン・ディ・ティロ氏が独立宣言を起草した1976年は、ベトナム戦争で民族自決を掲げる北ベトナムが米国に勝利した翌年だった。マラッカ海峡を挟んで隣にあたるインドシナ半島で起きた革命は、アチェの独立運動にも多大な影響を与えた。
ベトナム戦争では中国や旧ソ連などが北ベトナムと民族解放戦線を支援した。ところがアチェの場合はその逆だった。天然ガスなどの地下資源に恵まれていたため、米国、日本、韓国などはアチェがインドネシアの一部であった方が好都合だった。アチェの広大な天然ガス工場は日本のODAで建設されたもので、ガスの最大顧客は日本だった。
カリスマ的人気を集めるティロ氏の帰国は、来春に予定されている自治州議会選挙に少なからず影響を及ぼすと見られており、中央政府は神経を尖らせている。29年間に渡って国軍とゲリラ戦を続けてきた「GAM(自由アチェ運動)」の元メンバーが政党を立ち上げ立候補するからだ。
州都バンダアチェで開かれた帰国セレモニーには、ハッサン・ディ・ティロ氏を見たことがない若い世代を含め数万人が集まり、中央モスク前広場を埋め尽くした。マザーランドの独立にすべてをかけた男の人生は無駄ではなかった。
(※アチェ内戦)
かつてアチェ王国として栄えたナングロ・アチェ州は、独自の言語・文化を持ち、天然ガス、石油などの地下資源が豊富なことから、インドネシアからの独立を望んできた。
アチェを手放したくない中央政府は軍事力で押さえ込もうとし、独立派武装勢力のGAMとの間で30年間にわたり内戦が続いてきた。非戦闘員の市民を含めた犠牲者の数は約1万2千人〜1万5千人に上る。
2005年8月、インドネシア中央政府とGAMは和平に調印し、内戦に終止符が打たれた。