文字サイズ

田中龍作ジャーナルはサイトのアドレスが変わりました。
新サイト最新記事 (http://tanakaryusaku.jp/



2009年05月26日

スリランカLTTE指導者―「タミルの神様」の無責任な最期

  スリランカの反政府武装勢力LTTE(タミル・イーラム解放の虎。通称タミル・タイガー)寄りの「TamilNet」が24日、LTTE最高指導者のプラバカラン議長が死亡したことを認めた。

 政府軍が同議長の死亡を映像付きで伝えて6日後のことである。タミル人たちの間で神格化されていた同議長の死を易々と受け入れるわけにはいかなかったのだろう。

 タミル人地域の民家や商店などで議長のポスターをよく見かけた。映画のポスター位のサイズから等身大まで大小さまざまだった。至る所に金日成の肖像画が飾られている北朝鮮と似ているではないか、と思ったものだ。

 筆者はLTTEの女性兵士にインタビューしたが、二言目には「我々の優れた指導者が…」を繰り返した。これまた「偉大なる将軍様」を枕言葉に使う北朝鮮に似ていた。

 LTTEの得意戦術である自爆テロを実行するのは「ブラック・タイガー」という専門の部隊だ。自爆テロ戦士は、攻撃対象と実行日が決まったらプラバカラン議長に「お目通り」を許される、という。

写真
LTTEプラバカラン議長の“ご近影”。キリノッチ県のLTTE政治局本部で(写真:筆者)


  女性兵士は「(議長から自爆テロを命じられたら)喜んで自爆テロをかける。相手に与える損害は大きい方がいい」と勇ましく答えた。

 LTTEの兵士は青酸カリの入ったペンダントを首にぶら下げていた。政府軍に拘束されれば、容赦のない拷問にかけられる。拷問で軍事機密を漏らさないようにするため、拘束されたら直ちに服毒自殺するのである。

 部下には自爆テロと服毒自殺を奨励していたプラバカラン議長だったが、自らは最後まで生き延びようとした。政府軍によるLTTE掃討作戦が最終局面を迎えていた17日、追い詰められた議長は車で政府軍の包囲網を突破しようとした。政府軍の一斉射撃は車を貫通し、議長に命中。“タミルの神様”はあっけなく54年の生涯を閉じた。

 26年間に渡ってゲリラ戦を指揮してきた“神様”の最後の戦術は、同じタミル人を「人間の楯」に取ることだった。火力・兵力に勝る政府軍の前に敗退を続けるLTTEは、20万人を超すタミル人を連行した。脱出を企てる者は射殺した。

 ばかりか、LTTEは「人間の楯」に砲弾を浴びせた。「政府軍の非道」と国際世論を煽るのが狙いだったのだろう。スリランカ北部のマニク・ファーム避難民キャンプに収容されているタミル人女性は「政府軍とLTTEの双方から砲撃があった」と証言した。

 国連のパン・ギムン事務総長が23日、同避難民キャンプを視察した。事務総長は「これまで世界中で似たような現場を見てきたが、これほどまでの惨状は見たことがない。地獄の様相だ」と話した。

 内戦による死者は7万人余り。国内外の避難民は127万人。タミル民族の自決を掲げて政府軍と熾烈な戦闘を繰り広げたLTTEは、自らと同じタミル人を地獄に突き落としたのである。独裁者はいつの世も身勝手で無責任だ。
 
posted by 田中龍作 at 00:22| Comment(0) | スリランカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月19日

【解説】スリランカ内戦とは何だったのか

 スリランカ内戦はまるで絵に描いたような少数民族と多数民族との戦争だった。少数派のタミル人は、全人口(2千万人)の2割足らずでヒンドゥー教徒。多数派のシンハラ人は全人口の7割以上を占め、ほとんどが仏教徒である。

 スリランカは1948年、英国の自治領として独立した。72年に新憲法が制定されると両民族の対立が表面化した。急進的な仏教徒の支援を受けた政権が、仏教を準国教としシンハラ語を国の唯一の公用語と定め、軍隊、警察をはじめとする行政組織をシンハラ人で固めた。
 
 さらにはシンハラ人をタミル人の郷土とも言えるジャフナ県に入植させる政策を進めた。3世紀頃、インドから渡ってきたタミル人が最初に住み着いたのがジャフナ県だ。徹底したシンハラ人優遇政策のためにタミル人の失業者が増大した。

虐げられたタミル人たちは民族自決を強く希求するようになる。76年、民族独立を目指す反政府武装組織LTTE(タミル・イーラム解放の虎。通称タミル・タイガー)が結成された。
 
 83年、タミル・タイガーがジャフナ県に駐留していた政府軍兵士13人を殺害すると、報復に出たシンハラ人は全国各地でタミル人を殺した。パゴダ(仏塔)の前にタミル人を集めて焼き殺す事件があちこちで発生したスリランカは一気に内戦に突入していった。

写真
自爆テロを決行した少女の遺影(タミル・タイガー政治局・キリノッチ県で。写真:筆者)


  タミル・タイガーは政府軍と比べると兵力は20分の1、武器も旧式だ。にもかかわらず互角かそれ以上の戦いを展開できたのは、野戦に長けていたからだった。ジャングルや海辺のマングローブ林はゲリラ戦に持ってこいの環境だった。

 自爆テロを戦術に用いたのはパレスチナのハマスよりも古い。爆薬を積んだ小型ボートで政府軍艦船に体当りする「タミル・タイガー海軍」は恐れられた。

 2002年にノルウェーの仲介で停戦するまで、タミル・タイガーは国土の3分の1を支配するに至った。

 精強を誇った頃である。だが、要人への自爆テロ攻撃は、国際世論の批判を浴び次第に孤立するようになる。91年、インドまで出かけてラジブ・ガンジー元首相を暗殺。99年にはクマラトゥンガ大統領を負傷させた。同大統領の父と夫はタミル民族との融和に身を捧げた人物だ。タミル・タイガーは闇雲な自爆テロ攻撃に走っていた。

 タミル人の子供を拉致し少年兵として使うことも国連などから強く非難された。何より子供を奪われた親の怒りは測り知れないものがあった。

 タミル人漁師はタミル・タイガー海軍の武器・弾薬運搬を手伝う可能性があるとして、海岸線から1キロまでしか出漁を許されない状態となっていた。 

 タミル人の民族自決のために始めた内戦だったはずが、当のタミル人が疲弊してしまったのだった。ゲリラ戦争は人民の海を作り後背地を持つことが鉄則だ。ところがタミル・タイガーは内外で味方を失っていった。

 これでは亡命政府を受け入れてくれる国など現れるはずもない。頼みの綱としていた海外在住のタミル人からも送金も途絶えがちになっていた。国際世論もタミル・タイガーに批判的とあって、国連もEUも本腰を入れて停戦の仲介はしなかった。

 今回のインド総選挙を受けた新政権の発足までにタミル・タイガーを掃討してほしいとの要請があったとも伝えられている。ラージャパクサ大統領が軍事作戦を急いで強行した理由のひとつだ。スリランカ経済はインドに大きく依存するため、インドの意向は無視できない。

 自民族からはあいそを尽かされ、絶大な影響力を持つ隣国からは邪魔者扱いにされる。かくしてタミル・タイガーは壊滅に追い込まれたのだった。
posted by 田中龍作 at 21:35| Comment(0) | スリランカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月18日

スリランカ アジアで一番長かった内戦終結

 スリランカで少数民族タミル人の独立を求める武装勢力・LTTE(タミル・イーラム解放の虎)と政府軍との間で26年間にわたって続いてきた内戦に悲劇的な終止符が打たれた。LTTEは17日夜(日本時間)、親LTTEのウェブサイト「TamilNet」を通じて事実上の降伏宣言を発表した。アジアで一番長かった内戦が終わったのである。

 LTTEは1990年代後半には空港を陥れるなどして北部のほぼすべて、東部の3分の1を支配していた。LTTEが精強を誇った頃である。だが、火力・兵力にまさる政府軍の前に最終的には北東部海岸のわずか1キロメートル四方に追い詰められていた。

写真
砲撃され廃墟となった病院(写真:スリランカ北部で筆者撮影)


 政府軍は昨年末からLTTE支配地域への攻撃を強め、LTTEは非戦闘員のタミル人を人間の楯に取った。だがLTTEを一気にせん滅したいタカ派のラージャ・パクサ大統領の意向を受けた政府軍は、非戦闘員の犠牲を省みずに猛攻を続けた。海岸線などには死体がゴロゴロと横たわる。国連は「スリランカは血の海になる」と警鐘を鳴らした。
  
 戦闘の節目ごとに数万人規模のタミル人が人間の楯から逃れた。LTTEは支配地域を追われる際、数十万のタミル人を連行したのだろう。LTTEが追い詰められた最終局面でも、国連スポークスマンのゴードン・ウェス氏によれば、非戦闘員3万〜8万人が人間の楯として、閉じ込められていた。

 狭いエリアに政府軍が砲撃を加えているのではないか、と国際社会は懸念した。爆発音と共に煙が上がるからだ。政府軍スポークスマンは「タミル・タイガーが弾薬に火を点けているため」と主張するが、ジャーナリストや援助団体が戦闘地域に入ることを制限しているため確認できない。死傷者の数もつかめない。

写真
LTTEは全盛時、北部全てと東部3分の1を支配下に置いていた(地図作成:塩田涼)


  政府軍の包囲網が5キロメートル四方だった9日夜から10日にかけても野戦病院に砲弾が浴びせられた。野戦病院は小学校としても使われていたので児童を含む378人が死亡した。この時も政府軍は「LTTEによる砲撃だ」としていたが、政府の医療当局者が「砲撃は政府軍支配地域から」と証言した。

 筆者は2度ほどタミル・タイガーの支配地域に入ったことがある。戦闘が行われていなくても医薬品は不足していた。病院も満足になかった。ここに砲弾が雨あられのごとく降り注いだのである。治療と呼べるようなものさえ受けられず、人々は命を落としていった。

 「人道上の危機」以外の何ものでもない事態が起きていたのだが、国連安保理の反応は鈍かった。ODA最大供与国で絶大な影響力を持つ日本もスリランカ政府を自制させることはできなかった。
posted by 田中龍作 at 09:15| Comment(0) | スリランカ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。