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2008年01月09日

なぜ続くアフガン紛争(最終回) ケシ王国の聖戦士

 アフガニスタンの各民族は地方に割拠して軍閥を形成している。その経済を支えてきたのが、ケシ栽培だ。高地で空気がよく乾燥しているため、純度の高いヘロインが精製される。当然、「世界市場」で人気が高い。アフガニスタンは、世界のケシ栽培量の実に92%を占める「ケシ王国」になってしまった。

アフガニスタン国軍の兵士(撮影:いずれも筆者)
アフガニスタン国軍の兵士(撮影:いずれも筆者)


 タリバンや各地の軍閥はケシを売り、武器調達や民兵の給料に充てる。農民にとってもケシほど有難い「作物」はない。地元ジャーナリストによれば、普通の農作物の場合、1戸あたりの月収は100〜200ドルだが、ケシは2,000〜4,000ドルだ。普通の農作物の10倍〜20倍にもなる。米軍はケシ撲滅にやっきとなっているが、タリバンや軍閥の前にはなす術もない。ケシ栽培農民にとってタリバンや軍閥は「守り神」のような存在だ。

 国軍兵士の月収は6,000〜8,000アフガニ(120〜160ドル)。地元ジャーナリストによれば軍閥は倍の給料を出す。資金源はケシだ。「危ない目にあって給料が半分ではたまったものではない」。国軍の新兵が脱走して軍閥の民兵になるケースが多い、という。

 カルザイ政権が発足して間もない頃、農業省の幹部は筆者に「内戦前は農業が国の富の半分を占めていた。農業がちゃんと復興すれば人々はケシ栽培に頼らなくて済む」と熱っぽく語ってくれた。ところが、農業の復興は容易ではなかった。畑を潤すカレーズ(農業用水路)が20年にわたる内戦で壊滅的な打撃を受けていたからだ。農地を人間の体にたとえるなら、カレーズは血管のように隅々にまで張り巡らされている。深さが2m位だったことからゲリラ戦の塹壕として使われた。

 復旧作業が始まったばかりの2002年、筆者は現場を訪れた。形といい大きさといいマグロのような不発弾がゴロゴロと、カレーズから掘り出されていた。周りは一面ぶどう畑だった地域だ。だが、ぶどうの木はすっかり枯れていた。「こんなになっちゃって、どうしようもないじゃねえか」。農民は嘆きながらかたっぱしから倒していった。ぶどうの木は乾いた音を立てて根元から倒れた。

塀の向こう一面が立ち枯れとなったぶどう畑だ。
塀の向こう一面が立ち枯れとなったぶどう畑だ。


 新しい苗木を植えても実をつけるまでは何年もかかる。政府や米軍が力づくで止めても、農民がケシ栽培に頼るのはひとえに生活のためだ。地球温暖化がこれに追い討ちをかけた。アフガニスタンではほとんど雨は降らない。大地に恵みの水をもたらすのは万年雪だ。それが温暖化でめっきり少なくなったのだ。

 アフガニスタンの農業従事者は労働人口の8割をも占める。国の土台だ。それが今、崩壊の危機にさらされているのである。


米軍はソ連軍の二の舞となるか

 生活をズタズタにした長い内戦が終ったと思ったら、異教徒の米軍がやってきて我が物顔でアラーの国を牛耳ろうとしている。敬虔なイスラム教徒であるアフガンの人々は、心穏やかであろうはずがない。

 カブール郊外で村人に聞いた。

 ――カルザイ大統領をどう思うか?
 「アメリカの従者なのでノーグッドだ」

 ――もしまた内戦になったらタリバンとカルザイ政権のどちらを支持するか?
 「イスラム法を守っている方」

 キリスト教文化の欧米諸国に支えられたカルザイ政権と、頑なにイスラム原理主義を貫くタリバン。どちらがイスラム法に則っているかは、改めていうまでもない。

 カルザイ政権になってから、商店ではポルノのCDやDVDが売られるようになった。それらの店が保守的な人たちに襲われることもある。ビールも大きなホテルでは飲める。ポルノも酒も明らかにコーランの教えに反するものだ。

 村人はタリバンを天敵としていたマスード派のムジャヒディーン(聖戦士)だった。それでも異教徒に操られたカルザイ政権よりタリバンを支持するというのだ。

異教徒の侵略に怒るムジャヒディ−ン。(2002年撮影)
異教徒の侵略に怒るムジャヒディ−ン。(2002年撮影)


 ムジャヒディーンたちはイスラムを冒涜する者に対しては死を賭して戦う。戦乱の絶えない国で生まれ育った彼らにとって戦争は生活の一部だ。DNAに刻み込まれているといってよい。カラシニコフ自動小銃を畑のアゼに置き農耕にいそしみながら戦闘に出かける人々だ。

 彼らは、今は不本意ながら米軍とカルザイ政権により武装解除されている。だが、ケシ栽培で軍資金は豊かだ。彼らに近代的な兵器が潤沢に渡るようなことになれば、米軍といえど窮地に追い込まれるだろう。撤退を余儀なくされた旧ソ連軍の二の舞を、今度は米軍が演ずる日が来ないとは限らない。《連載おわり》
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2008年01月08日

なぜ続くアフガン紛争(5) 米国陰謀説の説得性

中央アジア諸国の北・東・西は米国に反発する国ばかり(地図作成:塩田涼)
中央アジア諸国の北・東・西は米国に反発する国ばかり(地図作成:塩田涼)


 アフガニスタンの人々は「ここはパシュトゥン族の地区、そこはタジク族、あそこはハザラ族」などと敏感に気にかける。

 前回取材のコーディネーターを務めてくれたタジク人は豪胆な男だった。地雷原の中を「俺の後をついて来い」と言って悠然と歩くほどだった。その彼にしても他民族の地区に行くと、取材車にロックをかけて閉じこもったきり出てこなかった。

 この連載第1回で述べたように、アフガニスタンは民族ごとに大まかな棲み分けができている。 民族共和国による緩やかな連邦国家にすれば無用な紛争はしなくて済む――。筆者はこう思うのだが、そうなると困る国がある。それが米国だ。

 中央アジアのウズベキスタンとトルクメニスタンは石油と天然ガスの埋蔵量が豊かだ。米国はそれをアフガニスタンを経由するパイプラインでインド洋まで運び出したい。そのため、アフガニスタンは米国の意に添える統一国家でなければならないのだ。

マスード記念塔。カブール国際空港そば(撮影:いずれも筆者)
マスード記念塔。カブール国際空港そば(撮影:いずれも筆者)


 地図で分かるとおり、周辺諸国を見れば、西はイラン、北はロシア、東は中国。いずれも米国に反発している国ぐにだ。どうしてこれらにパイプラインを敷設できようか。中央アジアの石油と天然ガスは、アフガニスタン → パキスタン → インド洋のルートで運び出すしかないのである。

 アメリカが米石油メジャー、ユノカル社の特別顧問だったハミド・カルザイ氏をアフガニスタンの大統領に「インストール」したのは、このためだ。カルザイ氏は全人口の42%という最大民族・パシュトゥン族の出身だ。最大民族から大統領を選ぶのは、アフガニスタン以外の国であれば合理的である。だがアフガンではそれは合理的でないことが間もなく証明される――。

 カルザイ政権発足後1ヶ月と経たないうちに他民族の不満が爆発した。大統領一行が襲われる銃撃事件が起きたのだ。大統領の護衛は当初、国防部が担当していた。国防部はパシュトゥン族と犬猿の仲のタジク族が主体だ。大統領周辺は国防部が襲撃事件を仕組んだとの見方を強め、護衛を米軍(現在は民間軍事会社)に切り替えた。

 それでもカルザイ政権は国防部からタジク人を切り離すことはできない。米国が首都カブール奪還(2001年11月)に利用した北部同盟の中心が、タジク人だったからである。米国のその場しのぎの政策が、後の火種となっているのだ。

9.11テロはアフガン侵攻の口実?

 アフガニスタンに侵攻する口実として米国が9.11同時多発テロ事件を仕組んだ、という見方がある。陰謀説である。筆者はこの手はあまり好きではない。だが現地で取材を進めていると、いかにも「米国の策略」を思わせる、いくつかの事柄に出くわした。

 その1つに、ムッラー・ボルジャンとマスード司令官の死がある。

 ボルジャンはタリバンの最高幹部だった男だ。パシュトゥン族で構成されるタリバンでありながら、彼は他民族からも敬愛されていた。そのボルジャンが、米国の諜報機関とパキスタンのムシャラフ大統領から、2つの計画への協力を要請されていたという。

ムッラー・ボルジャンの墓(男性の足元)
ムッラー・ボルジャンの墓(男性の足元)


 1つ目は、アルカイーダに多額の金を渡してニューヨークのワールドトレードセンター・ビルに飛行機を突っ込ませる。2つ目は、アフガニスタン国民の間にカリスマ的人気を持つタジク族のマスード司令官の暗殺だ。もし、米軍の侵攻、駐留などといった事態になった場合、愛国心の塊で敬虔なイスラム教徒であるマスード司令官が黙って許すはずがないからだ。

 ボルジャンは米国とパキスタンの協力要請を2つとも断った。ニューヨーク攻撃に対する報復を口実に、米軍がアフガニスタンに侵攻することを読んでいたからだ。相次ぐクーデターと戦乱の中で生まれ育ってきたボルジャンには、「戦争はもうごめんだ」との強い思いがあった。マスード司令官の暗殺については、イスラム教徒同士で殺し合いたくない、という理由で拒否した。

 米国とパキスタンにとって、ボルジャンは「知りすぎた男」になった。彼は2000年末、何者かに狙撃され命を落とした。米国とパキスタンの諜報機関が絡んでいる、との見方が有力だ。翌2001年9月10日にマスード司令官が暗殺される。その翌日、世界を震感させる9.11テロが起きる。無関係と思われている2つの死は、実は密接につながっていたというわけだ。

 それから1ヶ月も経たないうちに米国はアフガニスタンに侵攻した。「目論み通り」というのが、この陰謀説の説得力あるところだ。《つづく》
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2008年01月06日

なぜ続くアフガン紛争(4)ソ連に翻弄され続けて

 アフガニスタンの統一国家誕生は遅い。18世紀にパシュトゥン人がカンダハルを首都に初めての統一国家を作った。だが、民族対立のため26年間しか続かなかった。幕開けからしてその後のアフガニスタンを予言していた。

長年の戦乱でカブールの街は瓦礫が目につく。(撮影:いずれも筆者)
長年の戦乱でカブールの街は瓦礫が目につく。(撮影:いずれも筆者)


 本格的な内戦の時代は1979年、ソ連の介入で幕を開ける。西側諸国によるモスクワオリンピックのボイコット騒動をご記憶の読者も多いのではないだろうか。前代未聞の五輪ボイコットは、ソ連に対する西側の意思表示だった。

 モスクワの支援を受けて政権を掌握していた「アフガニスタン人民民主党」(PDPA)内で権力闘争が起きる。ソ連は「アフガニスタン革命を守る」という大義名分で軍事介入した。ソ連の傀儡カルマル政権は、抵抗運動を徹底弾圧した。

 隣のパキスタンやイランに逃れた難民の中から、侵攻ソ連軍にゲリラ戦を挑むグループが続々現れた。ムジャヒディーン(聖戦士)と呼ばれた彼らを、米国、サウジアラビア、パキスタンがカネと兵器を提供して支援した。後に起きる9.11テロの首謀者とされるビン・ラディンやアラブ義勇兵は、この頃ムジャヒディーンに加わった。ビン・ラディン一派と米国、サウジアラビアは反ソ「同盟軍」だったのだ。

 ソ連は1万人を超す兵を失い、89年に完全撤退した。92年、首都カブールはムジャヒディーンの手に落ちる。ところが権力配分をめぐって紛糾し、再び内戦となる。治安は悪化し、人心が荒廃したところにイスラム原理主義を奉じる「神学生=タリバン」が現れる。タリバンはビン・ラディンの資金援助を受け、怒涛の勢いで勝ち進んで96年にカブールを占拠した。

米軍の空爆で破壊された旧王宮(裏側から)
米軍の空爆で破壊された旧王宮(裏側から)


 2001年、米国本土で同時多発テロ9.11事件が発生。米国はビン・ラディンを事件首謀者としてタリバン政権に引き渡しを求めた。タリバンは応じず、米軍はアフガニスタン攻撃に踏み切る。空爆と共に、反タリバンで結束する北部同盟の力を利用し、カブールを陥落させた。

 01年12月の「ボン合意」に基づきカルザイ氏を中心にした暫定行政機構が発足し、翌年のロヤジルガ(民族大会議)で「カルザイ大統領」が承認される。だが閣僚ポストの配分をめぐる民族間の対立で不穏な空気がくすぶり続けた。タリバンの復活はこれまでにも述べたが、パシュトゥン族のタリバンと「共闘」している地方軍閥も多い。カルザイ政権が安定しないわけである。

 1960年代の王政時代、首相として実権を握っていたのはパシュトゥン人で王族出身のダウド・カーン将軍だった。ダウド首相はソ連にそそのかされてパシュトン人居住地域の独立国家化を目指し、パシュトゥン人優位の経済政策を進めた。非パシュトゥン人が激しく反発する中、ダウド首相は1963年に突然辞職する。

 ザヒール国王は首相の後任に王族出身でない人物を初めて首相に据え、新憲法を公布した。「国王は国の象徴であり、統治権はない。国民の意思を現すのは国会である」とする立憲君主制だった。長年、戦乱が続いてきたアフガニスタンに初めて民主的な色彩の濃い国家が誕生したのだった。

 ところが1972年、軍部に大きな影響力を持つダウド前首相がクーデターを起こす。ダウドは王政を廃止し、自ら大統領になった。後ろでソ連が糸を引いていることは明らかだった。当時、アメリカはパキスタンに関与を強めていた。ソ連の友邦・インドとの間で封じ込めるにはアフガニスタンを抱き込む必要があったからだ。

旧王宮正面
旧王宮正面


 結局、アフガニスタンの歴史を振り返ったとき、「平和」と言える時代はザヒール国王統治(1963〜1972年)のわずか10年足らずの期間だけだったことになる。

×  ×  ×


 現在のカブールの中心地から街外れにかつての王宮がある。米軍の空爆に遭い、惨めな姿をさらしていた。米軍が攻撃したのは、王宮がタリバンの軍事基地となっていたからだ。

 旧王宮は米軍のカブール侵攻から6年を経た今も、なお硝煙の臭いがうすく漂う。それは大国の都合と民族間紛争に翻弄され続けるアフガニスタン国家の姿を象徴していた。《つづく》
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