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2010年06月04日

日本ODAと戦ったゲリラ指導者の死〜アチェ〜


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晩年のハッサン・ディ・ティロ氏。眼光は鋭かった【05年、ストックホルムの亡命政府オフィスで。写真:筆者撮影】


 インドネシアの最西端アチェの独立戦争に人生を捧げた男が3日、84年の生涯を閉じた。男の名はハッサン・ディ・ティロ。中央政府(国軍)と30年間に渡って内戦を繰り広げた武装組織GAM「Gerakan Ache Merdeka(自由アチェ運動)」の指導者である。

 中央政府は天然ガスやゴムなどアチェの豊かな天然資源を武力で独占しようとした。これに銃を持って立ち上がったのがハッサン・ディ・ティロ氏率いるGAMだった。1976年のことだ。

 インドネシア国策企業である天然ガス工場は日本政府のODAで建設された。とにかく広大だ。横を車で走っても30〜40分間は工場の景色が続く。GAM兵士やGAMとの関わりを疑われた住民は、工場内にある拷問部屋で阿鼻叫喚の責苦に遭ったあげく殺された。

 豊富な天然ガスに目をつけた日本企業が後押しする政府のODAがなければ、苛烈な内戦はなかったかもしれない。少なくともアチェの人々を拷問の恐怖に震えあがらせることはなかっただろう。

 アチェはイスラム教徒の国インドネシアの中でも他地域に比べて原理主義の色が濃く、独立心も強い。インドネシアを植民地化したオランダに最後まで抵抗した地域がアチェだった。GAMの武装闘争がアチェの民衆から支持されたのは、こうした宗教観や歴史があるからだ。

 圧倒的な火力を誇る国軍にゲリラ戦を挑むGAMは80年代には、リビアまで足を伸ばし軍事教練に参加したこともあった。だが多勢に無勢。GAMはしだいにジャングルの奥に追い詰められていった。

 ハッサン・ディ・ティロ氏ら指導部はスウェーデンに逃れ亡命政府を立ち上げた。筆者は05年、ストックホルムの亡命政府を訪ねた。中央政府との和平が大詰めを迎えていた頃である。

 30年間、北欧ストックホルムから遠く離れた赤道直下のアチェにどうやって指示を出しているのかをゲリラ指導者に聞いた。ティロ氏は5年前に脳梗塞を患ったため舌が時折もつれる。相手の言葉に対する反応も遅れがちだ。インタビューの最中、イビキを立てて眠りに落ちる場面もあった。

 筆者はアチェで撮影してきたスチール写真20数枚をティロ氏の前に置いた。写真をパラパラとめくっていたティロ氏の手が止まった。ユドヨノ大統領とユスフ・カラ副大統領がプリントされたTシャツを着た男性の写真を見つけた時である。「インドネシアガバメント、ノー!」。ティロ氏は鋭く唸って写真を叩きつけたのだった。眼光は刃物のように不気味に輝いた。老いたりとはいえ、ゲリラ指導者の紛れもない凄味だ。

 アチェ和平が05年8月調印され、08年10月には和平の功労者であるフィンランド元大統領のアハティ・サーリ氏がノーベル平和賞を受賞した。ティロ氏は身の安全確保のため、アハティ・サーリ氏のノーベル平和賞受賞を待つようにしてアチェの土を踏んだ。

 州都バンダアチェではティロ氏の30年ぶりの帰郷を祝うセレモニーが催され、中央モスク前広場は大勢の人で埋め尽くされた。ティロ氏を見たことさえない若者もマザーランドのカリスマに熱狂した。

 アチェは04年末、スマトラ沖大津波が発生するまで、海外ジャーナリストの立ち入りがシャットアウトされた秘境だった。ハッサン・ディ・ティロ氏らのヨーロッパ亡命がなければ、アチェの苛酷な実態は世界に知らされないままだったこともあり得る。

 日本のODAがもたらしたとも言えるアチェ内戦。住民を震え上がらせた国軍の撤退を勝ち取ったゲリラ指導者は、故郷の病院で静かに息を引き取った。日本の新聞は片隅でベタ記事として扱った。

 ◇
【読者の皆様】

 いつも拙稿をお読み頂き有難うございます。私儀、田中龍作は現場で見聞きし肌で感じたことを皆様に報告する現場主義を貫いてまいりました。ところが原稿料を頂戴していた会社が現下の不況で事実上倒産し、取材費を賄うことが不可能な事態となりました。
 
 貯金も底をつき、取材を続けることが難しくなっております。コンビニなどでアルバイトをすることも考えましたが、日々激動する政治や社会問題をカバーする時間が取れないことが判明しました。誠に勝手な御願いであることは重ね重ね承知しておりますが、基金を立ち上げることと致しました。救いの手をお待ちしております。

 使途は毎月報告致します。一人でも多くの方に読んで頂くため、会員制をとることは致しません。特定団体等からの資金提供などを受けず、不偏不党の立場を貫くためにも皆様のお力を頂戴し、紙面を充実させたいと考えております。1円からでも10円からでも結構です。心より御願い申し上げます。

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posted by 田中龍作 at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | インドネシア(アチェ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月20日

【世界写真紀行】新居は穴だらけのビニールシート 〜インドネシア・アチェ

 

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05年5月、インドネシア・アチェで。写真=筆者撮影


 04年末、スマトラ沖大津波に襲われたアチェ。翌05年8月の和平調印で終止符が打たれるまで30年間に渡って、分離独立を掲げる武装勢力「GAM(アチェ自由運動)」と政府軍との間で内戦が続いていた。
 
 武装勢力の拠点とされる山間部の村から、政府軍によって強制移住させられた人々は数え切れない。あてがわれた地区の新居は、弱々しい木材の柱にビニールシートを被せただけの粗末なものだ。シートは穴だらけで空も見えれば雨も降り込む。人間らしい暮らしにはほど遠い世界があった。子供を抱く母親はそれでも穏やかな笑みを浮かべていた。
posted by 田中龍作 at 04:15| Comment(0) | TrackBack(0) | インドネシア(アチェ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月25日

インド洋津波から4年、禍転じて福となす

国連機関やNGOのテントがひしめく。画面左上にオックスファムの旗(アチェで筆者撮影)
国連機関やNGOのテントがひしめく。画面左上にオックスファムの旗(アチェで筆者撮影)


 インド洋沿岸諸国を襲い23万人が犠牲となった大津波からちょうど4年が経つ。国際援助団体「オックスファム」(本部=ロンドン)は今月一杯で、現地7カ国での支援活動に区切りをつけることになった。

 4年間で世界中から2億9400万ドルの寄付が寄せられ、250万人に水、消毒、住宅・学校建設などの支援に役立てた。スポークスマンは「浄財は活かし切った」と胸を張る。

街に船が流れ着いた。
街に船が流れ着いた。


アチェ和平が遺した教訓

 大津波で最も多く犠牲者を出したのがインドネシアで16万人、次がスリランカで3万5000人だった。津波発生後間もなく、甚大な被害を受けた2国を筆者は訪れた。インドネシアにはテレビ番組の取材で、スリランカにはNGOに同行して入国した。

 震源地のすぐ間近だったインドネシアのアチェは、同国の死者・行方不明者の半数を占めた。天然ガスなどの天然資源が豊かで歴史・文化が違うことから独立を求める武装勢力と中央政府との間で30年間に渡り内戦が続いていた。外国人は全くといってよいほどアチェには入ることができなかった。

 だが余りにも大き過ぎる津波被害のためインドネシア中央政府は、国連機関や海外NGOの救援活動に頼らざるを得なかった。天然資源がなかったら見捨てていただろう。海外からの援助がまっとうに行き渡っているかを監視するために、ジャーナリストの入域も許可された。

 津波の力は凄まじかった。つい昨日まで漁村だった所は一望荒野となっていた。倒壊した建物は伝染病の蔓延を防ぐため遺体と共に焼いた。木材が焼け焦げた匂いが立ち込めていた。やや生臭かったのは気のせいだったのだろう。海岸から直線距離にして10kmほどある内陸部の街には、船が“流れ着いて”いた。

 生き残った人々が生活してゆける状況ではなかった。海岸で貝殻を割っていた主婦は「もし国際社会の援助がなかったら生きてゆけない」と訴えた。

 国連諸機関やNGOのテントが数え切れないほど建ち並び、援助物資を満載した大型トラックが砂塵を巻き上げて走っていた。復興に向けた活気がアチェに明るさをもたらしていた。

 だが、奥地にまで援助活動に行こうとした海外NGOが射殺される事件がしばし起きていた。中央政府は奥地にこもる武装勢力の仕業であると喧伝した。

列車もゆがむ津波の力(スリランカで筆者撮影)
列車もゆがむ津波の力(スリランカで筆者撮影)


 筆者も奥地に入った。4輪駆動の取材車は昼は窓を全開にし、夜は室内灯を点けなければならなかった。「私たちは怪しい者ではありません」ということを示すためだ。そうしなければ武装勢力の一味とみなされ、国軍のスナイパーに狙撃される。海外NGOを射殺していたのは国軍だったのだ。

 こうした惨劇を経ながらアチェの実情は、国際社会に伝わっていった。津波直後に立ち上がった和平プロセスも前に動き始めた。最大のODA供与国の日本政府もJICAなどを通して「和平を急げ」とネジを巻いた。国際社会の努力は翌年8月の和平調印となって結実した。

 「禍転じて福となす」。アチェの人々が受けた甚大な被害の前には軽率な表現かもしれないが、津波を契機に内戦は終結した。

 インド洋津波は、大規模な自然災害に遭った場合は国を開き、世界の支援を受け入れることが復興になるという前例を示した。ミャンマー政府は、この教訓をどう受け止めるだろうか。

 日本はミャンマーに対しても最大のODA供与国である。ミャンマー政府に対して「国際社会への窓を開けろ」と本腰を入れて圧力をかけるべきだ。
posted by 田中龍作 at 00:00| Comment(0) | インドネシア(アチェ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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