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2010年07月22日

【ガザ点描】カゴの鳥の夢は束の間にして破られた

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ガザ国際空港。滑走路は見渡す限り「がれきの海」だった(19日。写真:筆者撮影)


 ガザは陸地のほとんどをイスラエルに囲まれる。わずかな残りをイスラエルと和平協定を結んでいるエジプトが塞ぎ、地中海はイスラエル海軍が厳重に固める。まさしくカゴの鳥状態だ。

 カゴの鳥が空にはばたく機会が一度だけあった。ガザ国際空港の開港(1998年)だった。PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長が世界各国から集めた支援金で建設したことから「ヤセル・アラファト空港」とも呼ばれる。

 「屈辱的な目に遭うイスラエルの検問所を通ることなく世界に飛び立てる」。ガザの人々は解放感に沸いた。だがそれも束の間。2000年に「アルアクサ・インティファーダ」が発生するとイスラエル軍は真っ先にガザ国際空港を叩いたのである。F16戦闘爆撃機が3,000メートル滑走路をじゅうたん爆撃した。管制塔をはじめとする空港ビルを破壊することも忘れなかった。

 エジプト国境の間近にあるガザ国際空港を訪れた。パレスチナ人にとって希望の灯火だった空港は「がれきの海」と化していた。アスファルトが長さ70〜80センチ、幅50〜60センチの菱形に砕かれている。不気味な菱形は見渡す限り続く。破壊の凄まじさには息を飲むしかなかった。

 イスラエル軍は新型爆弾のテストでもしたのだろうか。それともパレスチナ人が空港を持つことが忌々しかったのか。空港近くにはイスラエルの監視塔があり、望遠カメラが四六時中、目を光らせる。万が一にでもパレスチナ人が空港を再建したりすることのないように見張っているのだ。

 第3次中東戦争(1967年)以来、イスラエルの軍事占領下にあるガザ。空港が機能したわずか2年間をのぞく40年余り、パレスチナ人は東京23区の半分ほどの狭い土地に閉じ込められたままだ。

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ガザ国際空港はエジプト国境沿いの町にある(地図作成:塩田涼)


                         
posted by 田中龍作 at 06:03| Comment(0) | TrackBack(0) | パレスチナ(ガザ・西岸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月21日

【ガザ点描】ズボン脱がされ仲間を射殺されながら経済支えた


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エレツ検問所=ガザ側=(昨年3月。写真:筆者撮影)


 ガザ最北端にあるエレツ検問所。ガザと「外界」との出入り口となる5つの検問所のうち、「人専門」の検問所だ。

 爆弾を抱えてイスラエルに入ることなど先ず考えられないエイドワーカーやジャーナリストも徹底的にチェックされる。X線検査はホールドアップさせた状態でスキャナーが体の周りを回転し、所持品検査は荷物の中味一点一点に至るまで調べる。

 2000年9月に「アルアクサ・インティファーダ」が発生するまで、ガザの人々はエレツ検問所を通ってイスラエルに仕事に出かけていた。めぼしい産業がないガザの人々にとって、イスラエルでの仕事は現金収入を得る貴重なものだった。

 とはいえイスラエルはガザと交戦関係にある。ガザの労働者を易々と入れるわけには行かない。検問所のチェックは厳しい。22年間に渡って毎日、イスラエルまで働きに出かけていたサイード・ソバイタさん(51歳)に聞いた――。

記者:検問所ではどれ位の時間待たされたか。

サイードさん:朝(ガザ→イスラエル)は2時間、夕方(イスラエル→ガザ)が1時間。

記:2時間も待たされてそれから現場に行くには相当に早起きしなければならないが、どんな生活パターンだったのか。

サ:朝3時に家を出る→4時に検問所着→2時間待たされる→検問所から1時間かかって現場着→7時に働き始める→午後4時に仕事終了→1時間かけて検問所着→1時間待たされる→午後6時に検問所通過→午後7時に自宅着。

記:検問所でのイスラエル軍の対応はパレスチナ人にとって屈辱的だった と聞くが…

サ:ズボンを脱がされ、シャツをまくり上げるよう命令されるなどした。

記:他にも屈辱的なことはなかったか。

サ:それ以上話したくない。(口にするのも忌まわしいほど屈辱的だったようだ)

記:射殺されることもあったと聞いたが…

サ:時々あった。

記:どんな理由で?

サ:「うるさい」という理由だけで射殺された。脚を撃たれることもあった。銃床で殴られたりもした。狭い所で2時間も待たされたら騒々しくもなる。

記:よく我慢しましたね。

サ:9人の家族(妻と子供8人)を食べさせて行かなくてはならないからね。

記:収入はどれ位ありましたか。

サ:月に700ドル。建設現場の仕事だった。

 サイードさんのような働き方は「イスラエルへの出稼ぎ」と言われ、多くの労働者が収入を得ていた。これが禁止されガザの失業率は大きくハネ上がった。ガザの経済を支えていた「イスラエルへの出稼ぎ」は、スボンを脱がされ、仲間が射殺されるのを我慢することでもあった。
 
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エレツ検問所はガザ最北端の出入り口だ(地図作成:塩田涼)
posted by 田中龍作 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | パレスチナ(ガザ・西岸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月20日

【ガザ発】ハマスからも追い立てられた 〜下〜

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目の前で弟が射殺されたオムスィアットさん。「将来はジャーナリストになって戦争の真実を世界に訴えたい」(18日、アルアトゥラ村で。写真:筆者撮影)


 立ち退きを迫るハマスの脅しにも屈しなかったケマルさん(前稿〜中〜)の長女オムスィアットさん(13歳)。目の前で弟がイスラエル軍に射殺された。雷の音が射撃音に聞こえ雨の中を駆け出す、という。

 精神を病んだオムスィアットさんは、ポーランドまで治療を受けに行った。だが、イスラエル軍が侵攻してきた時の光景が、今なお毎晩夢に出てきて胸を締めつける。

 少女の苦悩は昇華された。オムスィアットさんの書いた詩が、アル・アトゥラ村を取材していた英国人記者の目に留まったのである。アラビア語から英語に翻訳されイギリスでも紹介された――

  子供たちに何故罪があるの。何をしたというの
  家もなく腹を空かせて……
  弟は何故殺されなくてはならなかったの
  3歳の妹はなぜ空腹を我慢しなければならないの
  ガザの地であとどれだけ殺戮が繰り返されるの
  ガザの地であとどれだけ殉教が繰り返されるの
  
 
 オムスィアットさんに「ハマスをどう思うか」と聞いた。彼女は「紛争も破壊もすべてハマスがもたらした」と大きく首を横に振った。

 彼女の将来の夢はイスラエル軍の侵攻前は学校教師だったが、侵攻後はジャーナリストに変わった。「戦争の真実を世界に訴えたいから」と話し唇を真一文字に結んだ。
posted by 田中龍作 at 03:54| Comment(0) | TrackBack(0) | パレスチナ(ガザ・西岸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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