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2010年07月19日

【ガザ発】ハマスからも追い立てられた 〜中〜

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立ち退きを迫るハマスに屈しなかったケマルさん。後ろの写真はイスラエル軍に射殺された長男(18日、アルアトゥラ村で。写真:筆者撮影)


【ガザ発】ハマスからも追い立てられた 〜中〜

 日曜日の早朝だった。ケマル・アワジャさんは戦車の轟音で目を覚ました。寝ていた子供たちは泣き出す。戦車のキャタピラーは家を踏み潰した。逃げ遅れた長男のエイブラヒム君(当時9歳=写真)は、イスラエル兵に頭と胸を撃たれ即死。妻のワファさん(34歳)も足を撃たれた。昨年1月4日、イスラエル軍の陸上部隊が侵攻してきた時の光景をケマルさんは忌々しそうに振り返る。

 ケマルさん一家はイスラルの軍事侵攻が終わるまでアル・アトゥラ村から2キロ程南にあるベドウィン族の地区で過ごした。2週間後に停戦となったので村に戻り、テント暮らしを始めた。

 それから4週間後のことだった。ケマルさん一家も、前稿(〜上〜)のシェイマさん家族と同様ハマスに立ち退きを命じられたのである。ケマルさんは頑として従わなかった。60家族のうち53家族がハマスの追い立てに従った。渋る家族はハマスにテントを壊され脅された。

 ケマルさんはPA(パレスチナ自治政府)の職員で、ワイロにも手を染めていなかったため、ハマスも強硬な態度に出ることができなかったのである。

 テントの前庭には色鮮やかな花が咲き、トウモロコシも実をつけるようになった。葉も花びらも束の間の平和をいとおしむかのように風に揺れていた。
posted by 田中龍作 at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | パレスチナ(ガザ・西岸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【ガザ発】村人はハマスからも追い立てられた 〜上〜


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イスラエル軍の砲撃で廃墟同然となった家屋。地面に接しているのは2階部分だ。手前の女性はシェイマさん(18日、アルアトゥラ村で。写真:筆者撮影)


 ガザ最北部のアル・アトゥラ村はイスラエルとの境界まで指呼の距離だ。村に差しかかる幹線道路の入口には世界屈指の強さを誇るイスラエル・メルカバ戦車の残骸が飾られている。北から侵攻してきたメルカバ戦車をガザの武装勢力が、対戦車バズーカ砲で撃破したものだ。村が激戦の地となったことを物語っている。

 村に入ると目に飛び込んできたのは砲撃で壁が吹き飛び今にも倒れそうな家屋だった。1階部分は崩壊しているため2階部分が地上との出入り口となっている。写真を撮ろうと近づいたところ子供が一人二人と出てきた。廃墟で遊んでいるのかと思ったらそうではなかった。2組の家族が住んでいるというのだ.

 昨年、筆者が訪れた時、村人たちは「テント村」で暮らしていた。安全なテントを離れて危険な廃墟で暮らすには、何か事情があるはずだ。 

 住人の一人シェイマ・アロさん(15歳)に、イスラエル軍が侵攻してきた時からの模様を聞いた。シェイマさんによるとこうだ―ー。

 イスラエル軍は先ず水と電気を停めた。村人たちはバスやトイレタンクの水を飲んだ。イスラエル軍から「出て行け」と言われたので、周辺の国連施設に身を寄せた。戦争が終り帰村、テント暮らしが始まった。
 それから4週間後のことだった。今度はハマスが来て「出ていけ」と言われた。結局、(廃墟でも)かつての自宅に戻るしかなかった。(以上シェイマさんの話)

 テント村で暮らしていた260人はこうしてハマスに追い立てられた。テント村には世界各国からジャーナリストが取材に訪れていた。ハマスは戦略要衝の地の内情をジャーナリストに探られることを警戒した。そのため「テント村」の撤去にかかったのだ。
 村人たちは「自民族の軍隊」に迫害されたのである。戦争の不条理という他はない。

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アル・アトゥラ村はガザの最北部に位置する(地図作成:塩田涼)


                         (つづく)
posted by 田中龍作 at 03:11| Comment(0) | TrackBack(0) | パレスチナ(ガザ・西岸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月17日

【ガザ発】集団虐殺を生き延びた村人は後遺症に苦しむ


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集団虐殺を免れたサムさんの娘たち(16日、ザイトゥーン地区で。写真:筆者撮影)


 一昨年末から22日間にわたって続いたイスラエル軍によるガザへの侵攻で、国連人道理事会は集団虐殺があったとされる事件の調査を進めた。事件があったのはガザ市のほぼ中央に位置するザイトゥーン地区だ。ガザにあっては水に恵まれた肥沃な田園地帯である。

 筆者は事件後間もなく現地に入り生存者の証言を集めた。精度・確度を高めるために幾度も現場に足を運び、日を違えて同じ人物に同じ内容の質問をしたりした。(拙ジャーナル『住民は一か所に集められ虐殺された』2009年3月22日付)

 国連人道理事会の調査団長は「ユーゴ特別法廷」「ルワンダ特別法廷」を裁いたゴールドストーン元検事(南アフリカ)が務める。ジェノサイドの専門家でもある。ゴールドストーン団長はガザまで出向いて公聴会を開き、生存者などから証言を得てきた。

 国連による調査でこれまでに明らかにされてきた事実が、筆者が現場で取材した内容とほぼ同じであることに改めて驚く。自らもユダヤ系のゴルードストーン氏が、イスラエル軍が行ったとされる虐殺を認定しているからだ。

 昨年1月4日〜5日にかけて陸上侵攻してきたイスラエル軍部隊が住民97人を一軒の家(※)に閉じ込めて空爆、29人が死亡したのである(国連人道調整事務所=OCHA=の調べでは死者は30人、集められた住民は110人となっている)。

1年半ぶりに訪れたザイトゥーン地区は、数時間前に取材したアルショハーダ村と同じように寂れていた。荷車を引くロバの蹄の音がカン高く響く。のどかだ。事件直後立ち込めていた「おぞましい霊気」は、強烈な夏の日差しと地中海からの風に消されていた。

 公聴会に証人として立ったヘルミ・アルサムーニさん(27歳)に再会した。ヘルミさんもイスラエル軍に集められ家に閉じ込められた一人だ。連行される前に自宅で子供3人(うち1人は赤ん坊)を射殺されている。
 
 撃たれたものの生き残った息子(現在6歳)は、銃弾が頬から鼻を貫通したため呼吸がうまくいかない。近く3度目の手術を受ける。ヘルミさんも脚と背中を撃たれ痺れが今なお残る。

 イブティ・サムさん(主婦・現在32歳)も集められた。肩と脚を撃たれた夫は外国で手術を受け治療中だ。10人の子供を抱えるサムさんは「生活が苦しい」と嘆く。金のネックレスや指輪を現金に換え、コンクリート片を再利用した家を建てた。テント暮らしから抜け出すためだ。

 サムさんは「虐殺事件の光景を毎晩夢に見る」と眉をしかめた。他の住民も異口同音に「虐殺事件が毎晩夢に出てくる」と話す。


(※)アラブ民族は大家族制であることから普通、一家で大きな家に住む。

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「住民はあそこに集められ爆撃された」と指さしていたヘルミさん(昨年2月、写真:筆者撮影)

posted by 田中龍作 at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | パレスチナ(ガザ・西岸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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