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2010年07月17日

【ガザ発】「娘たちがいなかったら頭を撃ち抜いて死ねるのに」


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「破壊直後よりも今の方がもっと悪い」と憤慨するハドゥルさんだが、娘たちのために自殺を思い留まっている(16日、アルショハーダ村で。写真:筆者撮影)


 昨年、イスラエル軍の爆撃で村がすっぽりと消えたガザ市北東部のアルショハーダ村。生き残った村人は今頃どのように暮らしているのか、と長く気にかかっていた。 

 イスラエルとの境からわずか西に1キロの場所にあるアルショハーダ村は戦略要衝の地であることから、ガザに陸上侵攻してくるイスラエル軍とそれを阻止せんとする「イスラム聖戦」との間で凄絶な白兵戦が繰り広げられた。村が全滅したのはこのためだ。

 運良く一命を取り留めた人々は、かつて自宅だった瓦礫の隙間で暮らしていた(写真下段参照)。ハドゥルさん一家も、家族20人が広さ10畳、高さ1メートル50センチほどの空間に身を寄せ合っていた。雨水を集めてコーヒーをたてていたハドゥルさん(当時47歳)を思い出す。(拙ジャーナル『村は徹底的に破壊され絶望だけが残った』〜09年2月23日付け参照)。

 あれから一年半ぶりに村を訪れた。幾何学模様を描くように並んでいた国際赤十字のテントは一張りもなくなっていた。代わりにコンクリートを再利用したブロック作りの家屋やトタン葺きの住宅が散在する。数えるほどしかない。イスラエル軍侵攻前は100家族以上いた村も、今では20家族しかいない。

 まるで工場跡地のような広い空き地で、飴のように曲がった鉄筋を真っ直ぐに伸ばしている男性がいた。近づいてみるとハドゥルさんだった。筆者を見ると「ヤパン・ジャーナリスト」と呼んだ。覚えていたのだ。

 村が破壊される前、ハドゥルさんは家畜を飼い、オリーブやレモンなどを栽培し年収が100万円あった。今は無収入に近い。伸ばした鉄筋は1,000sで4万円ちょっとにしかならない。1,000sに達するには数ヶ月もかかる。イスラム教会からの寄附で細々と生計を立てている、という。

 今はコンテナ住宅に住む。コンテナは叔父からもらった。夏はむせ返るように暑い。4畳ほどのスペースに10人が枕を並べる。

 ハドゥルさんは、イスラエルが侵攻してきた時の状況を問わず語りに話し始めた。繰り返しが多い。1年半前と全く同じだ。「精神を病んでいるんだ」と自ら言う。

 「娘が10人もおらず、自分一人だったら拳銃で頭を打ち抜いて死ねるのに…」。ハドゥルさんは幾度も繰り返し訴えた。

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昨年2月、爆撃直後のハドゥルさん一家。ハドゥルさん(右端)は溜めた雨水でコーヒーをたてていた(アルショハーダ村で筆者撮影)


posted by 田中龍作 at 05:10| Comment(0) | TrackBack(0) | パレスチナ(ガザ・西岸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月16日

【ガザ発】爆撃直後と変わらぬ街で復興支える少年たち


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少年たちはコンクリート片を一日中拾い集める(ガザ最北部のベイトジャラで。写真:筆者撮影)


 イスラエルの軍事侵攻から1年半が経ったガザ――。筆者は侵攻直後に続いて再び訪れた。イスラエルによる経済封鎖で復興もままならないと伝えられているガザの実情をこの目で確かめるためだ。

 当時のガザは猛烈かつ精密な爆撃に晒されて瓦礫野原と化し、街のそちこちに硝煙の香りが漂っていた。工場や警察などの公共施設はことごとく破壊された。イスラエル軍がハマスの関連施設と見たためである。

 ジャーナリストや援助団体がガザに入るにはイスラエルのエレツ検問所(地図参照)を潜る。1km以上もある検問所の長い通路を抜けて目の前に広がるガザの景色に驚きそして愕然とした。爆撃直後と全く変わっていなかったからだ。

 エレツ検問所周辺はベイトジャラと呼ばれる地域で、爆撃前は工場や企業が軒を連ねていた。爆撃に遭い甲子園球場が数十個も入るような広大な“更地”となったが、今も更地のままだ。 

 軍事転用される恐れがあるとして、イスラエルはコンクリート、鉄パイプなどの搬入を禁止している(例外は国連などの施設の再建に用いられる場合のみ)。ガザの復興が進まないのも当然である。

 爆撃直後の更地とひとつだけ違う光景があった。子供たちが蟻のように群がってコンクリートの破片を集めていることだ。コンクリート破片は工場に持ち込まれて砂利状に粉砕される。砂利状となったコンクリートは建物の復興に用いられる。気が遠くなるほどの根気と労力を要する作業だ。

 軍事占領にも負けず抵抗を続けるガザの人々のバイタリティーを見た思いがした。

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ガザ概念図(作成:塩田涼)


【読者の皆様】
皆様のご支援のおかげでガザ取材に入ることができました。費用の続く限り当地に留まり、貧困と絶望が支配する現状をリポート致します。





posted by 田中龍作 at 04:15| Comment(0) | TrackBack(0) | パレスチナ(ガザ・西岸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月15日

【エルサレム発】人命と平和のジレンマ

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シャリート兵士の母アビバさん(左)を励ます女性はバスで3時間かけて来た(首相官邸前=エルサレム=写真:筆者撮影)


 イスラエル軍のギラード・シャリート兵士(23才)が作戦中、ハマスに誘拐されて4年が経つ。シャリート兵士は06年6月、ガザとの境界からわずか数百メートルの地点で搭乗していた戦車が武装勢力の襲撃に遭い拉致された。

 ハマスはイスラエル政府に対してシャリート兵士の身柄と引き換えにイスエルの刑務所で囚人となっているハマスのメンバー1,000人の釈放を求めている。

 イスラエル国民の関心は高い。エルサレムの首相官邸前では、シャリート兵士の奪還を求める市民たちが2年前からテントを張って署名活動などを行っている。同兵士の両親も連日、テントに詰めて息子の奪還を呼びかける。4年余りも息子の帰りを待ち続ける母親のアビバさんの表情からは憔悴の色が見て取れた。

 署名はこれまでに50万筆集まった。筆者が訪ねた日は、イスラエル北部の工業都市ハイファからバスで3時間もかけて来た団体もあった。署名に訪れる人はひきもきらない状態だ。

 だが、イスラエル政府にとってはジレンマだ。祖国を防衛してきた軍人の命も大事だが、テロリストを再び放てば大勢の国民の生命が危険にさらされるからだ。「捕虜事件」はイスラエル政府のノドに刺さった大きな骨とも言える。

 シャリート兵士を少年の頃から知る同郷の男性は溜息まじりに次のように語った。「シャリートを取り返したいのは山々だが『囚人1,000人と交換しろ』と簡単に言えない。政府へのプレッシャーが高まれば喜ぶのはハマスだからだ」。

 捕虜が長期間に渡って拘束されているケースでは、国際法に基づいて国際赤十字が「捕虜の健康診断の実施」を求めるのだが、国際赤十字は今回の事件で乗り出していない。イスラエルにとって「負のダブルスタンダード」が重くのしかかる。

 ◇
田中は15日午前(日本時間:同日夕)、ガザに入る予定です。
posted by 田中龍作 at 03:52| Comment(0) | TrackBack(1) | パレスチナ(ガザ・西岸) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする