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2009年06月05日

東京で天安門追悼集会、少数民族も弾圧の非道さ訴え

 発生から20年を経てなお国際世論の指弾を浴びる天安門事件の記念日にあたる6月4日、言論の自由が保証されている欧米やオーストラリアなどで、事件の犠牲者を追悼する集会が開かれた。
 
 日本でも在外中国人の反体制組織「民主中国陣線・日本支部」(本部=ドイツ・フランクフルト)などが集会を催し、母国の民主化を訴えた。

 会場となった東京・池袋の東京芸術劇場には在日中国人100人余りが集まった。政治的な理由で中国から逃れてきたり、帰れなくなったりした人たちだ。

 折りしもマカオでは天安門事件当時の学生リーダーで台湾在住のウアルカイシさん(41才)が中国政府入管当局から入国を拒否されている。公安当局から指名手配されているウアルカイシさんは、中国在住の両親に会うためマカオ経由で一時帰国しようとしたところだった。程度の差こそあれ池袋の会場に集まった中国人の多くは、ウアルカイシさんと似たような事情を抱えている。

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戦車の前に立ちはだかる青年。天安門事件後有名なシーンとなった。


 集会では天安門事件の写真がスライド上映された。人民解放軍に殺害された学生や労働者が次々と映し出される。脳しょうや内臓が飛び出した遺体もあれば、上半身と下半身が真っ二つに裂かれた死体もある。いずれも戦車のキャタピラーに轢かれたものだ。肩にポッカリ空いた銃創。体中に巻かれた包帯は、白い部分がなくなるほど真っ赤に染まっている……。160枚の写真は事件の凄惨さを20年経った今も生々しく伝える。国土と国民を守るはずの軍隊が銃を向けたのは、自国の学生や労働者たちだった。
 
 中国政府にとって民主化運動と並ぶタブーが小数民族問題だ。集会にはチベット自治区、内モンゴル自治区からも参加者があった。

 「ダライ・ラマ法王日本代表部」広報担当官のツェワン・ギャルポ・アリヤさんが挨拶に立ちアピールした。「中国は世界一の人口と経済力があってもスーパーパワーとは呼べない。正義と人権がないからです。天安門での虐殺を国民に謝罪すべきです……」。

 内モンゴル自治区もチベットと同じ様に中国政府の圧政に苦しむ。「内モンゴル人民党」日本支部代表のケレイト・フビスガルトさんは訴えた。「(天安門事件と同じ)89年、チンギス・ハーンの生誕を祝う会を開こうとしたが許可されなかった。(中略)……我々の民族を弾圧する中国政府を絶対信じることはできない」。
 
 中国政府が民族のアイデンティティーを認めていないというところが、チベットと内モンゴル両自治区に共通する。

 隣国、ミャンマー(ビルマ)からも出席者があった。「カチン民族機構・日本支部」事務局長のマリップ・セン・ブさんは筆者に語ってくれた。「ミャンマー軍事政権が長持ちするのは中国が支えているから。中国が民主化されない限りミャンマーの民主化は無理です」。

 かつてのソ連がそうであったように大国が独裁体制を固持しようとすると、少数民族や隣国をも圧政下に置くことを、中国共産党も示している。

 ソ連を解体に導き東欧を自由化したゴルバチョフ書記長は1989年5月、当初からの外遊日程だったとはいえ中国民主化運動のうねりを加速させることを視野に入れて、北京を訪れた。その頃、広大な天安門広場は学生や労働者たちで溢れていた。

 だが、ゴルバチョフ訪中から1ヶ月足らずのうち中国民主化運動は、あっけなく軍靴に踏みにじられた。世界史の針を逆回転させた天安門事件。経済だけが発展し金銭欲が支配する社会はイビツだ。歴史の裁きを受ける日がやがて来るだろう。
posted by 田中龍作 at 03:49| Comment(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月02日

「6月4日を忘れるな」〜天安門事件から20年

  学生や労働者による民主化要求を武力で弾圧した「天安門事件」(1989年6月4日)から20年が経つ。

 「言論の自由」の旗振り役で学生、知識人らから信頼の厚かった胡耀邦総書記の死去(同年4月)を契機に北京で始まった学生らの集会・デモは、燎原の火のごとく全国に広がった。6月に入ると50万人を収容できる広大な天安門広場を学生や労働者が埋め尽くし「政治改革」を求めた。中国共産党の一党独裁を揺るがしかねないほどの勢いとなっていたのである。

 学生らの勢いが頂点に達した6月4日、人民解放軍の戦車が隊列を組んで突如広場に現れた。解放軍は戦車搭載の機関銃から集会参加者に向けて発砲した。キャタピラーに轢かれて、「のしイカ」のようになった死体も散在した。当局の発表によれば「死者は319人」ということになっているが、よほどの親中派でもない限りこの数字は信じ難い。  

 天安門事件は国際世論の非難を浴び、以後中国政府にとってタブーとなってきた。故・ケ小平は遺書の中で「人民解放軍の出動を命じたのは誤りだった」と悔いている。「ケ小平の遺書」は怪文書あるいは捏造との説もある。だが、ケ小平の死をメディアの速報より20分も前に筆者に電話で知らせてくれた中国人ジャーナリストは、「ケ小平の遺書はある」と断言する。

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林さんらは中国大使館に抗議文を手渡そうとしたが、警察に阻まれた(東京・麻布で。写真=筆者撮影)


 当時の学生リーダーたちの多くは米国などに逃れ、今も母国の民主化運動に携わっている。この日本でも母国に帰れなくなったり、逃れてきたりした中国人たちが民主化運動を続けている。

 「民主中国陣線」日本支部主席の林飛さんは、88年に来日、東海大学在学中に天安門事件が発生した。中国の政治体制批判を始めた林さんは、妻と息子を中国から香港に亡命させた。香港は当時イギリス領で思想信条の自由が保証されていた。97年に香港が中国に返還される直前には、日本に呼び寄せ、帰化させた。

 林さん率いる「民主中国陣線」は、チベット弾圧に反対するデモ・集会にも参加する。「89年3月のチベット弾圧が6月の天安門事件につながった」という認識があるからだ。民主化運動と少数民族問題は、中国政府にとって目の上のタンコブなのである。

 直近の日曜日にあたる5月31日、林さんらは自動車を連ねて都内をパレードした。目的地は麻布の中国大使館だ。「私たち中国人はこの日(天安門事件発生の89年6月4日)を忘れてはいません」「一党独裁を放棄するように(中国政府に)呼びかけましょう」……。スピ−カーからのアピールが日曜日の繁華街に響いた。

 89年当時、北京の出版社に勤務していた宋建栄さん(仮名)は、天安門広場の集会に参加した。皮切りとなった4月の胡耀邦総書記の死去から6月の事件発生まで天安門広場に通った、という。

 「学生が戦車に火をつけた。戦車が学生を轢き殺した」。昨日のことのように宋さんは話す。公安当局にマークされた宋さんは翌90年、日本に逃れた。

 「言論弾圧、納得できないね」。宋さんが憤りながら話していると、横から妻が遮った。「話したらだめよ」。宋さんは「家族が中国にいるからね。これ以上話せないよ」と事情を明かしてくれた。

 20年もの歳月が経ち、遠い異国にいても天安門事件は中国人の人生に重くのしかかっている。
posted by 田中龍作 at 18:32| Comment(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする