文字サイズ

田中龍作ジャーナルはサイトのアドレスが変わりました。
新サイト最新記事 (http://tanakaryusaku.jp/



2010年08月15日

靖国参拝の元陸軍情報部員 「平和は戦友たちのおかげ」


写真
陸軍中野学校の教育を受けた八児さんは85歳という高齢にも関わらず言葉も論理も明快だった(15日、靖国神社で。写真:筆者撮影)


 65回目となる「終戦の日」の靖国神社――。日の丸を掲げて行進する右翼団体、特攻服に身を固め記念撮影に興じる軍国マニアの青年……目に飛び込んでくるのは毎年おなじみの光景だ。
 
 「みんなで靖国神社に参拝する国会議員」の先生たちも粛々と英霊を弔った。例年と違うのは、菅政権が中国や韓国に気遣うあまり一人の閣僚も参拝していないことだ。2006年、小泉総理が参拝して周辺諸国との関係を冷え込ませたことを教訓にしているのだろうか。

 照りつける陽射しと靖国名物の蝉時雨の中、それぞれの終戦を年配の参拝者に聞いた。
 青森県から妻と共に訪れた男性(70歳)は終戦を満州で迎えた。ソ連軍が攻め込んで来たため引き揚げ始めた時だった。混乱のさなか母親(当時30歳)はチフスで命を落とした。弟がいたがやむなく現地の中国人に預けて帰国した。1984年、厚生省の事業で再会するまで弟とはほぼ40年間離れ離れだった。

 「引き揚げのドサクサで『敗戦』など知りもしなかった」と耳を手で塞ぎながら話す。戦争で人生を引き裂かれた男性は、閣僚が一人も参拝しないことに憤る。妻は足が悪く血圧も高い。「それでも今年は何が何でも参拝しなくてはならないと思い、きのうの朝青森を出た」と決然と語った。

 陸軍の情報部員だった八児雄三郎さん(85歳・東京都中野区)は終戦を大分の陸軍司令で知った。陸軍中野学校の教育を受けた八児さんは「情報部員として本土の防衛にあたる」任務を帯びていた。

 「『最後まで戦え』と教えられていたためアメリカが上陸してきたら反撃するつもりだった。『これは敵わない』と思ったのは夥しい艦船やブルドーザーを見た時だった。飛行場だってブルドーザーであっと言う間に作ってしまう。我々はスコップだったからね。そうして終戦から2ヶ月経った10月には敗戦を受け入れた」。軍服に身を包んだ八児さんは眼差しを遠くに置きながら話した。

 「きょうはビルマ、満州の戦線で亡くなった戦友のお参りに来た。菅政権はおかしい。亡くなった人は国のために戦った。我々が平和に暮らしているのは戦友たちがいるから」。八児さんは顔を赤らめながら語った。

 政権交代後、国立追悼施設をめぐる議論は宙に浮いたままだ。靖国神社のあり方についてもあたらず触らずの状態となっている。「戦後の平和と繁栄の礎」を築いてくれた戦没者の霊に応える義務が政治にはある。
posted by 田中龍作 at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 平和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月06日

ハイチPKO〜米国に復興利権を掠め取られるな

 ハイチ大地震の復興支援PKO(国連の平和維持活動)に参加する自衛隊の先遣隊が6日、陸上自衛隊宇都宮駐屯地を出発した。先遣隊が下ごしらえした後、現地に向かう本隊は施設部隊だ。工兵部隊とも言いブルドーザーやショベルカーなど重機を操る。道路、ビルの復旧や架橋などはお手のものだ。

 日本が戦後初めて自衛隊を海外に派遣したのが92年のカンボジアPKOだった。自衛隊の海外派遣への反対世論は凄まじかった。平和団体などは「海外派兵を許すな」と訴えて広大な自衛隊駐屯地を人間の鎖で囲むなどした。

 騒然とする中、陸上自衛隊第4施設団の工兵大隊400人はカンボジアに赴いた。内戦で破壊された国道2号線の修復が主な任務だった。国道2号線は日本で言えば東海道にあたるカンボジアの最重要幹線道路だ。

 ラフロードで車は激しくバウンドする。天井で頭を打たないように道中は腕で天井を支えていなければならなかった。目的地に着いた時腕は筋肉痛に見舞われ、しばらく言うことを聞かなかった。

 東南アジア特有の蒸し暑くて太陽がギラギラと照りつける過酷な気候の下、隊員たちは作業を続け国道2号線を修復した。自衛隊員が汗を流して修復した後、舗装工事をしたのは日本のゼネコン大手だった。S社とT社だったように覚えている。

 紛争処理に積極的に介入した国が復興利権を手にするのは国際社会の常識である。異論を唱えるつもりは毛頭ない。

 ハイチ復興のために自衛隊が粉骨砕身する。自民党政権時は抜かりなく日本企業が復興の甘い汁を吸えるように舞台を整えていた。日の浅い民主党政権は、そこまで頭が回っていないようである。しばらく経って米ゼネコンのベクテルが一儲けしたなどという話は聞きたくないものだ。

 

posted by 田中龍作 at 17:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 平和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月17日

鳩山首相、「対等な日米関係」諦める

写真
9月初旬ルース駐日大使との初会談。この頃は「対等な日米関係」と意気込んでいたが…(民主党本部、写真=筆者撮影)


 政治評論家の屋山太郎氏が「ナマコみたい」と評していたが、ナマコも驚くほどつかみどころがなかった――

 鳩山首相は16日、旧民主党時代から掲げてきた「常時駐留なき日米安保構想」について「現実に総理という立場になった中で、その考え方はやはり封印しなければならないと思っている」と記者団に語った。

 有体にいえば“米軍基地は温存する”ということだ。世界最強の軍隊を用心棒として置く。それも一つの安全保障のあり方だ。筆者は別に反対するものではない。

 ただ鳩山政権が「対等な日米同盟」を謳う以上、話は違ってくる。安全保障は同盟関係の基盤だ。首都のど真ん中(六本木)に基地を置かせ、軍用機が墜落しても警察は手を出せず、犯罪を冒した兵士もなかなか引き渡してもらえない。平等でないことは中学生にも分かる。

 普天間基地の移設をめぐっても首相の発言はコロコロ変わった。「私が近く決める」と決意表明していたはずが、決めたのは“先送り”だった。

 先月26日、普天間基地を抱える宜野湾市の伊波洋一市長が官邸で鳩山首相に会った。伊波市長は渡米して入手したグアムを海兵隊の拠点にする米軍の計画資料を首相に示した。忙しい国会の合間を縫って伊波市長を首相に会わせ、グアムへの全面移転の流れを作りかけていた、ある民主党議員事務所は、今回の“先送り”に落胆を隠さない。

 この議員は沖縄が選挙区ではないが、「常時駐留なき日米安保」の信念で鳩山氏が基地問題に取り組んでいるものと、すっかり思っていた。ところが鳩山首相本人がその信念を「封印」すると言い出したのだ。「国外移転は諦めた」との前ぶれとも取れる。

 「子供手当の所得制限」もそうだが、鳩山氏は前言を簡単にひるがえす。言葉が軽過ぎるのである。重要な問題は自分では決断できない。漢字は読めるし記者への対応は丁寧だが、指導者として肝心な部分が麻生前首相と日増しに似てきたように思えてならない。
posted by 田中龍作 at 07:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 平和 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。